なぜ「いい人」ばかりの職場で、有能な人がつぶされるのか?

はじめに

「職場の問題」と聞くと、一般的には、パワーハラスメントやモラルハラスメント、職場のいじめなど、社内の誰かによる明らかな問題行動をイメージしやすいかもしれません。

しかし、私が外部講師としてさまざまな企業に赴く中で、そのような分かりやすい「職場の問題」に遭遇するケースは、実はそれほど多くありません。

威圧的な上司や、攻撃的な性格の社員がいるわけではない。
上司も温厚。
職場で怒鳴る人もいない。
表立ったいざこざやトラブルもない。

一見すると、とても良い職場のように感じられます。

ところが、そのような「いい人」たちが集まっているはずの職場で、なぜか職場の問題にいち早く気づき、責任感をもって対処しようとする人が次第に孤立し、やがて職場を去ってしまうことがあります。

前回の記事では、「問題を発見した人」が、いつの間にか「問題人物」にされてしまう組織の構造について書きました。

今回は、そのとき周囲にいる「いい人」たちは、なぜ問題を止める側ではなく、ときとしてその構造に加わってしまうのかを考えてみたいと思います。

誰かを攻撃しなくても、人を孤立させることはできる

「集団で誰かをつぶす」と聞くと、いじめのような露骨な行為を連想しやすいと思います。しかし、職場で起こっていることは、もっと静かです。

ある不動産会社の事例を挙げてみましょう。
賃貸を担当するある社員が会議で、業界特有の商習慣について問題提起しました。当時は、大家さんがガス会社から設備の無償貸与を受ける見返りとして、入居者にその会社のLPガスを契約してもらうといった提携が多く行われており、それに伴う消費者トラブルも発生していました。長く続いてきた商習慣というものは、それ自体が当たり前になってしまい、「問題」が問題として認識されにくいことがあります。

その社員が会議でこの点を指摘したところ、上司はあまり話を取り上げたくない様子で、「自分たちは紹介しているだけだし、そこまで深刻に考えなくてもいいんじゃないかな」と言いました。

周囲も黙っています。

「とは言っても、この状況を放置すると……」
その社員がさらに説明しようとすると、その場にいた人たちはお互いに顔を見合わせ、黙ったままでした。

やがて上司が、「君の正論は分かった」とだけ言って、会議を半ば強制的に終えてしまいました。

気まずい空気だけが、その場に残りました。

その後、同僚の一人が、「今日の会議の雰囲気、最悪だったね。あいつの言い分もあるかもしれないけど、仕事のやり方を考えるのは上司なんだから、揉めるくらいなら黙って従っていればいいのに」と話しているのを、その社員は偶然耳にしてしまいます。

それ以来、上司の態度は少しずつ冷たくなりました。
職場の先輩や同僚と業務上のやり取りをしていても、以前よりそっけない態度を取られることが増えていきます。

まるで、上司とその社員のどちら側につくのかを、周囲がお互いに探り合っているかのようでした。こうして、最初は業務上の問題を提起しただけだった人が、少しずつ「面倒な人」「トラブルを起こす人」として認識されるようになっていきます。

ここで厄介なのは、一人ひとりを見ると、本当に悪い人ではないということです。ところが、集団になると、個人でいるときとは違う力学が働くことがあります。

「いい人」こそが、スケープゴート化に加担する

組織や構造が抱えている問題や責任を、特定の一人に集め、その人を問題の原因であるかのように扱うことがあります。これを「スケープゴート化」と呼びます。そして、このスケープゴート化を成立させるのは、必ずしも攻撃的な人だけではありません。むしろ、周囲にいる「いい人」たちの沈黙や同調が、その構造を強くしてしまうことがあります。

では、その「いい人」とは、どのような人なのでしょうか。

自分の判断に自信がなく、「上の人が言うことが正しい」と考える人

職場には、人の顔色をよく見て行動し、特に上司の考えに合わせることで、自分の立場や安全を守ろうとする人がいます。自分自身の考えや判断に十分な自信を持てないため、「上司がそう言うなら、きっとそうなのだろう」と考え、その時々で力を持っている人の判断に合わせる方を選びます。本人には、「誰かを攻撃しよう」という意図はないかもしれません。しかし、上司が誰かを「問題のある人」と見なし始めたとき、その見方まで一緒に受け入れてしまうことがあります。

「考えて判断する」より、「空気を感じて対応する」人

職場の空気を読むのが得意な人は、相手の表情や声の調子、場の雰囲気といった非言語的な情報を敏感に察知しています。例えば、自分に落ち度がなくても、上司が不機嫌そうであれば、とりあえず「すみません」と言う。会議の場が険悪になりそうなら、自分の意見よりも、その場が収まる発言を選ぶ。もちろん、こうした感受性は、人間関係を円滑にするうえでは大切です。

ただし、それが強くなりすぎると、「この場で何を言えば丸く収まるか」が判断の中心となり、

「事実は何か」
「顧客にとって何が望ましいのか」
「組織として本来どう判断すべきなのか」

という視点が弱くなることがあります。その結果、相手や場面によって発言が変わり、本人にも明確な判断基準がない状態になりやすくなります。

嫌われたくない、巻き込まれたくない人

もう一つは、
「組織の中で安全でいたい」
「人から悪く思われたくない」
「面倒なことには巻き込まれたくない」

という気持ちです。この気持ち自体は、誰にでも多少はあるものだと思います。

しかし、それが判断の中心になると、
「ビジネス倫理として適切なのか」
「お客様にとって本当に望ましいのか」
「組織全体にとって長期的に何が必要なのか」

よりも、「多数派にいた方が安全だ」という判断が優先されるようになります。

少数派から異なる意見が出ても、それを検討する前に距離を置き、「当事者同士で話し合えばいい」と、自分は関与しない立場を選ぶこともあります。

こうした一つひとつの行動は、小さなものです。

しかし、それが集団として重なると、結果として、問題を提起した人を孤立させ、有能な人材を組織から追い出す力になってしまうことがあります。誰かが意図的に「この人をつぶそう」と考えているわけではない。それでも、上位者への追随、空気への同調、自己保身が重なれば、組織は機能不全に陥ります。

「いい人」であることと、「組織にとって有益な存在であること」は同じではない

私はここに、「いい人」という言葉の難しさがあると思います。

人当たりがよい。
周囲に親切である。
争いを好まない。
場の雰囲気を大切にする。

どれも、人間関係において大切なことです。しかし、それだけでは、複雑な問題に直面したときに適切な判断ができるとは限りません。

ときには、場の雰囲気を壊してでも、
「それは事実なのでしょうか」
「本人の性格の話と、業務上の問題は分けて考えませんか」
「誰が悪いかではなく、そもそも何が起きたのかを確認しましょう」

と言う必要があります。

それは、決して誰かと争うことではありません。むしろ、誰か一人を悪者にすることなく、組織全体を事実へ戻すための行動です。

前回の記事でも書いたように、「問題を指摘した人の伝え方に問題があった」ことと、「指摘された問題そのものが存在しなかった」ことは別です。
この区別を誰かが守らなければ、組織はいつの間にか、「何が起きたのか」ではなく、「誰を問題人物にするか」という話へ流れていってしまいます。

まとめ

職場で有能な人が孤立していくとき、そこに必ずしも「悪い人たち」がいるとは限りません。一人ひとりは、真面目で、温厚で、親切な人かもしれません。

けれども、

波風を立てたくない。
上司には逆らいたくない。
自分まで巻き込まれたくない。
みんなと同じ側にいたい。

そうした小さな選択が重なると、一人の人に責任が集まり、問題を指摘した人だけが組織から浮いてしまうことがあります。
そして、誰も「自分がその人をつぶした」とは思っていない。ここに、この問題の難しさがあります。

もし職場で誰かが急に孤立し、「あの人は問題がある」と言われ始めたときには、周囲の評価にそのまま乗る前に、一度だけ立ち止まってみてはいかがでしょうか。

「私は、この人について自分で事実を確認したのだろうか。それとも、周囲の空気を受け取っているだけなのだろうか」

「いい人」でいることは大切です。

しかし、組織の中では、ときに誰かに嫌われる可能性があっても事実を確認し、公正であろうとすることの方が、もっと大切な場面があるのではないでしょうか。