神学から考える「神の定めた運命」と「人間の責任分担」とは

神学から考える「神の定めた運命」と「人間の責任分担」とは

Vol1 責任分担と主人意識

シリーズ「ここに神経を使う人が逸材になる」の最初のテーマは「責任分担と主人意識」です。自分を成長させ活躍できる人材へと変化する上で必要なのは、「いかに自分のやりたいことをやるか」にコミットすることよりも、「いかに自分に与えられた責任分担を果たすか」「いかに自分に任された領域を良い仕事で満たすか」という考えを持つことだと言われています。そしてその責任に対して自分が主人という意識で向き合うことが大切です。


はじめに

私たちは努力をしなければ生きられません。

狩猟採集の原始人の時代から、スマホ1つで世界中から色んなものが手に入るようになった現代まで、生きていくためには努力が必要という根本は変わっていないのです。1人が食べて暮らしていくだけでも大変なことですが、家族や自分以外の人を養っていくならばもっと大変です。努力なしの成功は有り得ませんし、どんな分野だとしても成功する人の中で、努力をしていない人はいません。

一方で、努力をすればすべての人が望んでいる成功を手に入れられるのかと言えば、人生はいつも自分の思い通りになる訳ではなく、望んでいる結果を得られない時もあります。そういう時、人は「運命」のせいにしたりします。

今日は神学という観点から、「運命」はあるのか、「人間の責任分担」とは何か、お伝えしていきたいと思います。

不平等で、唯一無二の人生

人は、様々な違いを持って生まれてきます。体や性格、個性の違い、育つ家庭や環境の違い、大きくは生まれる時代や国の違いなど、人間の努力や意思ではどうしようもないものを持って生まれてくるのです。

私自身も、中学生のときハリウッド映画にはまり「アメリカで生まれたかった」と思ったことがありましたし、大学生のときに入ったサッカーチームでこれまで学んだこともない練習方法を学び、「中学生の時にこれを学んでいたら、もっと良い選手になれたのに」と思ったことがありました。どんなところで育つか、どんなものに出会うのかは、1人1人の人生に大きな影響を与えますが、残念ながら選ぶことはできないのです。

ある意味で、人生というのは、生まれてくる時点で不平等なものです。そもそも「完全な平等」を作り出すことは不可能な訳ですから、この「不平等」どう捉えるかは大事なポイントです。

「不平等であるすべて」を「個性」と捉える時、生まれてくる時点で人間は「唯一無二」の存在として誰もが存在することになります。

「運命」とはあるのだろうか

聖書では、人間や万物を創造した存在を「神」としていますが、神の意思によってすべてのものが作られているという表現があります。

「ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。(ローマ人への手紙9章21〜22節)」

この聖書の記述を見ると、陶器の造り手のような立場の神は、自らの意志によって違いを与え、人間を創造したということになります。つまり、神様が「絶対的な運命」をもって人を創造しているので、いくら「努力」をしたとしても「運命」は変えられないと、捉えられます。そうなると「卑しい器のような、決して恵まれているとは言えない境遇」で生まれ育った人にとっては、「神」や「運命」というのは呪うべきものになってしまうかもしれません。

しかし、聖書には全く反対の意味を示す記述もあります。

「大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。 もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。(テモテへの第二の手紙2章20〜21節)」

この聖句が意味することは、人が自分を清め、作るならば、神もその人のことを貴重に思い、尊いところで用いるということです。つまり、自分を作った分だけ、使われる位置も役割も変わるということであり、「絶対的な運命」よりも「努力」が大切だという意味になります。

どちらが正しいのでしょうか?答えは、「両方とも正しい」です。

それぞれ置かれた位置での「努力」が必要

人間が生まれてくる境遇を選ぶことや変えることはできません。しかし、そこから「努力する」ということは平等にチャンスが与えられています。

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。(マタイによる福音書7章7〜11節)」

「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。(テモテへの第一の手紙2章4節)」

つまり、どんな境遇であろうとも、頑張ろうとする人、努力をする人のことを神様は放っておかず、必ず助けようとするということです。神様が人間に与えた責任分担、それは「努力」であり、自分の位置で最善を尽くすことなのです。

逆境のときに「運命」や「神様」のせいにしない

皆さんはどんなときに神様のことを考えるでしょうか?自分の力ではどうしようもないことに直面した時や、どうしても運が欲しい時、いつもは考えてもいなかった神様にお願いをする。そんな経験が誰でもあると思います。しかし、いざ物事がうまくいくと、「神様に感謝」する人は少なく、「自分を褒める」人が多いものです。

また、良くないことが起こった時に神様のせいにすることが多いのではないでしょうか。私の子供を見ても、ポケモンのカードを買う前には熱心に神様にお祈りをするのに、買ったカードがイマイチだったときには「お祈りしたのに、神様なんでだよっ!」と暴言を吐く場面をしばしば見ます(苦笑)。

「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。(伝道の書7章14節)」

逆境の時には、運命や神様のせいにせず、なぜ上手くできなかったのかを考えてみるべきです。深く考えてみると、その中に必ず「成功へのヒント」が隠されているはずです。

「幸せ」のカギは自分の努力

人間が幸せを感じる時とは、どんな時でしょうか。色々あるとは思いますが、結局の所、自分でできなかったことができるようになった時、自分の持っている力が他の人々や社会に必要とされる時ではないでしょうか。自分の鐘は他人に鳴らしてもらっても嬉しくはなく、自分で鳴らすから嬉しいのです。

もし、「自分は不利だ」「恵まれていない」という状況にあるならば、むしろチャンスかもしれません。

そもそも「私は何ひとつ不自由なことがない」といえる状況からスタートできる人は、ほとんどいないでしょう。人間は誰でも、何かしら「不満足」を抱えているからです。

その「不満足」を運命のせいにして、半ば諦めながら全力を尽くさないのことは簡単な選択です。しかし、「自分が置かれた境遇には意味があり、ここから少しでも満足できるように頑張ることが自分の責任分担だ」と思い、最善を尽くす努力が大切です。

「自分は恵まれていない」と思うところから腐らずに最善を尽くし、少しでも成功し状況を好転できるならば、不満足を抱えている自分以外の多くの人にも「私もできるかもしれない」と希望を与えられる、偉大な人生になるのではないでしょうか。

結び

今日お話してきたように、神様がすべての運命を決めていると思われる方もいるかもしれませんが、そうではありません。親が子供にできる精一杯のことをしてあげ、あとはその子が自分で成長していくのを嬉しく思うように、神様も人間が与えられた環境に感謝しながら、努力し、成長していくことを何よりも嬉しく思うのです。

「運命」や「神様」を呪って、もうこれ以上進みたくないと思った時、小さくても自ら一歩を踏み出せば、神様が数メートル先に飛行機を用意してくれているかもしれません。

小さな一歩を踏み出し続ける皆さんであることを、心から祈っています。