人目を気にしない「理念」あるリーダーになるために

人目を気にしない「理念」あるリーダーになるために

「令和初め」に考える日本人の特徴

平成を振り返る時、日本では「戦争がなかった時代」と言われたりもしますが、世界に目を向けてみると、テロや多くの紛争が起こり、この30年世界は激動の時代でした。世界と日本のギャップを少なからず感じざるを得ませんが、最近私が感じる「令和初め」の日本人の特徴をいくつか挙げてみたいと思います。

  • 自分が本当に幸せかは分からないけど、楽しく充実して生きていると思いたいし、思われたい。
  • SNSで「いいね」があると安心するし、他の人にどう思われるかが気になる。
  • 争いは好まず、巻き込まれることは面倒くさい。
  • 多くの人の中で気を遣うくらいなら1人の方が良いし、重い責任は負いたくない。
  • 政治や宗教、生きる目的などは難しいから、追求や議論はしない。
  • 仕事でも生活でも、大きな問題が起こらなければ、ひとまずは良しとする。

自分の基準ではなく世間の基準をいつも気にし、争いに繋がる強い考えや理念を持つことを拒み、責任を負うことを避ける、このような風潮が少なからず日本の社会全体にあるのではないかと思います。今回は、このような考え方から抜け出すためにはどうしたら良いのか、一緒に考えてみたいと思います。

 

「平和主義」について考える

考え方の話をしましたが、「私は平和主義者です」という人にしばしばお会いします。しかし、誤解を恐れずに言うならば、人と争わず衝突しないことが平和だと思っている人も見受けられます。「平和主義」とは、衝突や問題を起こさず、仲良しサークルのようなものを作ることでしょうか。

過去の歴史を見ると、戦争や紛争は多くの人が望まないのに起こることがほとんどです。なぜでしょうか?時として出てくる激しい感情をコントロールできず、問題となる根本を解決できなかったからです。

根本的な問題解決ができない理念なき「平和主義」が、その後の大きな悲劇をもたらすことになったと言われている事例がありますが、第二次世界大戦に突入していくターニングポイントとなる、1938年の「ミュンヘン会議」です。軍事力での領土拡張を進めるヒトラーに対し、イギリスの首相チェンバレンは平和主義のもとに宥和政策を取り、ヒトラーを止めるのではなく要求を認めたことが、その後のナチスのポーランド侵略、第二次大戦と繋がっていったという意見も多くあります。当時の英国民は拍手喝采で帰国したチェンバレンを迎えたと言いますが、国民から支持されず罵声を浴びせられ、ヒトラーと喧嘩してでも、その時に止めるべきだったのではないかとも言われています。

話の次元は大分下がりますが、我が家の3人兄弟の間でも毎日のように「紛争」が起こります(笑)。その際「仲良くしようね」「ケンカはだめだよ」では絶対に「紛争解決」はできません。

では、感情をコントロールし、紛争状態を解決させるのにはどうしたら良いでしょうか。

 

感情を治める「理念」を持つことの大切さ


兄弟喧嘩から紛争、戦争に至るまで、争っている人の特徴としては、感情をコントロールできていないことが挙げられます。人間は感情で生きていく生き物ですから、感情を持つこと自体が悪い訳ではありません。笑い、泣き、強い感情を持つということは素晴らしいことであり、我々の人生を豊かにしてくれます。

しかし、この感情が良くない方向に向かう時があります。ものごとの道理や他者への配慮よりも自分の感情が優先されてしまう時、冷静な判断ができなくなります。この時はまず高ぶった感情を治めなければなりません。

感情を治める方法は、感情よりも強い「理念」「思想」「理性」を持つことです。

「主は仰せられる、私の言葉は火のようではないか。また岩を打ち砕く鎚(つち)のようではないか。(エレミヤ書23章29節)」

聖書では、人間の考えを「岩」、神様による真理を「岩を打ち砕く鎚」と表現しています。人々の考えや感情よりも次元が高く強いものが真理であり、キリストが来ると真理、理念を持って人を治めると言いました。

また、真理を火に例えましたが、イエス・キリストが伝えた「理念」や「思想」が、小さな火が大きく燃え広がっていくように、世界中に広まっていきました。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」と教えた彼の言葉は有名ですが、言葉だけでなく、自身が十字架につけられて命絶える直前まで、「平和」とは強い理念によって作り出すものだということを行動で示し、教えました。

むしろキリスト教が戦争を起こしているではないか、と言う人もいますが、それはキリストから学んだ弟子たち、信徒たちが徐々にそれぞれの派閥を作って自分なりの解釈を主張し合い争ったからであって、イエス・キリストが今も生きていたならば全てを1つにする真理を伝えるでしょう。

 

真理や理念に基づく、価値ある生き方

皆さんは、どんな人生を望み、どんな人生が価値ある人生と考えるでしょうか。素敵な恋人や富を得ることでしょうか。社会的な成功を治め、充実感を得ることでしょうか。

世界で一番価値があるものは、何か。それは、命です。命がなければ、お金も使えないし、誰かを喜ばせてあげることもできません。命を守り、命を支え、命を救うことは、たとえ1人だとしても計り知れない価値があると言えるでしょう。もっと多くの命を守り、支え、育て、救うことができるならば、それは本当に大きな価値があることではないでしょうか。では、1人1人がそんな価値ある生き方をするためには、どうしたら良いでしょうか。以下に3つのことを挙げさせていただきます。

1.永遠不変の真理を学び、実践すること

「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。(コリント第一の手紙13章4〜7節)」

自分の考えや感情では、自分を治めることすら難しいですが、ましてや他者、多くの人を生かすためには、「多様な人間」に共通の真理や理念を学ばなければなりません。聖書では最も大きなものは愛だと言いましたが、愛も真理です。1人でもこのような愛を備えられた人がいたら、その家庭、組織、社会はどれほど素晴らしいものになるでしょうか。

2.身近に困っている人、壁にぶつかっている人を助け、生かすこと

特別な理念や信条がなく、それにより自信がない人も多いと思います。そんなときは、人を守り、救い、生かすことに挑戦してみることもおすすめです。私の母は、自信もなくて気弱な女性だったそうですが、子供3人を育て守る中で、本当に強くなったと言っていました。今は最強です(笑)。

人は、誰かを守ろうと必死に努力する中で強くなり、誰か生かすために学んで賢くなり、誰かを救うために忍耐強く愛を持つ人になるのではないでしょうか。

3.今より上の、責任ある立場により早く挑戦してみること

責任がある立場につくことは、面倒くさいことが伴います。自分1人ではしなくても良い苦労をしなければならないからです。しかし、人間は成長すればそれ相応の行ないが求められますし、そうしてこそ甲斐を感じることができます。いつかはやらないといけないならば、早くやってみることも良いことです。若い時の苦労は買ってでもしろ、とも言います。責任ある立場、面倒くさい役回りを務めることで、その立場に相応しい考えや実力を備えることができるのです。それは、お金では買えない価値があり、自分にとってとてつもなく大きな財産となります。

まとめ

自戒を含めての提案ですが、1人でも身近な人を生かし、有益をもたらす生き方をしてみませんか。そして、もっと多くの人を生かし有益をもたらす生き方に挑戦してみませんか。

そうなりたいならば、今の世の中の風潮や世論に妥協せず、100年後に振り返っても正しいと言える理念や真理を学び、それに従って生きてみるべきです。その時、自分の小さな悩みや不安などは吹き飛び、自信を持った人生に変わっているでしょう。

私の師事する牧師先生は、「本当の先進国は命を大事にする国だ」と言いました。平和だと言われている日本だからこそ、1人1人が命を大事にし、人間として価値ある生き方をする人で溢れる社会を作っていきたいものです。