なぜ『自分は必要とされていない』と思うのか?感覚が鋭い人が成功する方法

なぜ『自分は必要とされていない』と思うのか?感覚が鋭い人が成功する方法

■はじめに

 私の教会には、男女問わずの年齢、職業、境遇の方がいらっしゃいます。昔風の表現で言うならば、八王子の小さなサラダボウルです(笑)。

 その中で、大学生や20代の社会人たちも多く、彼らと共にさせて頂く機会が多いのですが、若者たちの中に「自分は必要とされていないんじゃないか」と考える人が、意外に多いことに気付かされます。かくいう私も、同じ年代の頃に少なからずそのように感じていた1人でもありますが。

 もちろん、年配の方も含めて人間であれば誰でも「自分は必要とされているのか」と悩むことはありますし、若者に限った話ではないと思います。私には3人の子供がおりますが、4歳の子でも、叱られると「パパは僕なんかいなくなっても良いんだ」と言ってくるときがあります。もちろん、「絶対必要だよ」と言って抱きしめますが(笑)。

 教会では、1人1人がとても貴重で唯一無二の存在であるということを、聖書とイエス・キリストの教えを根拠に常々伝えていますが、教会に限らず学校であれ職場であれ、漠然と「自分は必要とされていない」「自分は活かされていない」「自分の立場が分からない」と考えてしまう思考の癖、「自己肯定感の低さ」が多くの方にあるように感じます。日本が「幸福満足度ランキング」で54位だったという最新のニュースを見ましたが、「自己肯定感の低さ」が生み出すものは、「寂しさ」であると思います。

 今回の私の記事は、多くの世代の中で、気力体力共にエネルギーに溢れ、時間も可能性もたくさんあり、「少なくとも社会は君たちを必要としている!」という若者(10〜20代)に焦点を当てたいと思います。私(牧師)の立場から、若者たちが漠然と抱いている「寂しさ」の正体について考察をお伝えし、その一方でそういう人ほど持っている成功を掴みやすい利点について、書かせていただきます。

 

■若者たちの寂しさの正体 = 感覚の鋭さ

 今の若者たちは、私達が若かった頃に比べ、格段に感覚が鋭くなっていると感じます。特に「美」に対する感覚は、本当に優れていると思います。社会全体が格段と発展し、街も綺麗になり、社会に流通する情報量が圧倒的に増えてくる中で思春期を過ごしたということも少なからず影響があると思います。

 ふさわしい例かはわかりませんが、一緒に食事に行くと、大食いの男子が減りました(笑)。私が学生の頃は「とんかつ1切れでご飯1杯」の時代で、とにかく腹いっぱい食べていましたが、最近は男子学生の間でも「糖質制限ダイエット」や「グルテンフリー」などが流行っていて、食文化も大分変わりました。食だけでなく、全てにおいて「スマート」さ求める傾向があり、今の若者世代の美意識は非常に高いと思います。

ちなみに私の父は、腹いっぱい食べられない貧乏学生の頃で、うなぎ屋の軒先で匂いをかいで、忘れないうちに白飯を食べたと言っていましたので、世代ごとに様々な特徴がありますね。

 話を戻しまして、その「美意識の高さ」「スマートさ」は見習うべき点がたくさんあります。最近の10〜20代と一緒にイベントなどを行なうと、写真や映像作成にのセンス・技術の高さには本当に脱帽しますし、発想も豊かで斬新なものがどんどん出てきます。「美」だけでなく、組織運営等においても、矛盾や問題を発見することなどにも敏感で、感心させられることが多いです。スポーツや芸術分野でも、格段にセンスが良くなっていますし、一緒に活動すると本当に刺激的です。

 一方で、他人からの評価に対しても敏感であると思われます。エゴサーチ(自分の名前をインターネットで検索すること)をしたことがある人が大学生の4割に上るという統計もあるそうです。感覚が鋭い分、物事に対する反応や期待も大きくなり、「他者から自分がどう見られるか」ということにも、かなり敏感になっているように思われます。

 もちろん、上記に書かせて頂いたことは、今の若者世代全員に当てはまることではないのは当然ですが、「敏感である」「感覚が鋭い」というのは、今の若者世代の特徴ではないかと考えます。

 

■「感覚の鋭さ」をどう活かすか?

私が師事し尊敬する牧師先生から学んだことの1つが、「すべては使い方次第だ」ということです。

車もナイフも、「誰がどのように使うか」で価値が変わるし、それにより生み出されるものも変わります。

「鋭い感覚」というのは1つの「特徴」であり、「どう使うか」が大事ではないでしょうか。

 

私は日本史も大好きなのですが、皆さんにお馴染みの豊臣秀吉の例を挙げてお話したいと思います。秀吉は、今回のテーマである「感覚の鋭さ」を生かして大成功を収めた典型的な人物ではないでしょうか。信長との出会いの際、主人の草履を自分の懐で温めて差し出し、家来になったエピソードは有名です。では、なぜ秀吉だけがそんなことが出来たのでしょうか?

秀吉は「人たらし」だったと言われています。人の心の機微に気づき、その気付きを行動に変えられたということですよね。「こんな日に冷たい草履を履いたら、ご主人様は辛いだろうな」と、主人の気持ちを察する感覚を持っていたからであり、誰かに指示されたわけではなく自ら行動したことで、主人に気に入られるようになったのではないかと思います。「感覚の鋭さ」を良いところに使うことができたわけですね。

一方で、もしその感覚を「他人の視線を気にする」ところに使っていたら、出世も成功もできなかったことでしょう。「鋭い感覚」という特徴を、どう使うかで結果は大違いです。

 

感覚を、人目を意識するところに使う=「自分はどう思われているのだろう?」→寂しさなどの感情に振り回される

感覚を、他人の心を理解するところに使う=「どうしたら主人が喜ぶだろう?」→察しの良さが喜ばれる

 

さて、聖書には「鋭い感覚において、愛が増し加わる」と書いてあります。

「私はこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、鋭い感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、」(ピリピ人への手紙1章9〜10節)

感覚が鋭いことで、愛に溢れた人にもなれるわけですね。

 

■「感情」を「感覚」に変える

「自分は必要とされていない」と感じているのは、「感覚」から生まれる「感情」です。何か理由があって「必要とされていないお」と「感情」が生じるわけです。

 例えば、会社でAさんには大きなプロジェクトが任されているのに、自分は小さなことしか任せてもらえない場合があります。その際に、自分から見たら「大きなプロジェクト」「小さな雑用」と思っても、任せた主人(社長)の立場になって考えて見てはどうでしょうか。なぜそういう仕事の割り振りをしたのか、それは過去の色んなことや未来を見た上での社長の判断ですから、どうこう言っても仕方ありません。

 しかし、自分が任された小さいと思うことでも、社長にとっては誰かがしてくれないと困ることです。それを一生懸命やって、自分がその仕事で気付いたことを伝え、改善案を提案してみるのはどうでしょうか。そうすると、「お!それは気づかなかった!」と社長から感謝され、次は自分が大きなプロジェクトが任される可能性もあるのではないでしょうか。

 何かを「感じた」時、「つまらない」「やってられない」などの「感情」で終わらせるのではなく、周りの人の心や主人のような存在の心を察することができたら、感謝されるし、自己肯定感も高くなるのではないでしょうか。

 

■まとめ

 感覚があるということは、生きていることです。鋭い、鋭くない、その差はあるにしても、生きているならば皆「感覚」があります。この感覚を、「自分がどう思われているのか」に使うのではなく、「自分が何ができるか」に変えていけば、人生の自己満足度は高くなり、成功を治められるのではないでしょうか。

 

■おまけ

「感覚が鈍い」と思う人は、たくさんやれば感覚がつきます。料理が上手い人に味付けを聞くと、塩は「少々」と言われますが、下手な人の「少々」は致命的です…(笑)。これもたくさんやったから「いい塩梅」に出来るわけです。

やれば出来る!ですね。